最近は、障害者を「チャレンジド」ということばで表現するらしい。 この表現に違和感をもつのは、わたしだけだろうか。 どうやらアメリカあたりからやってきたものらしいが、 いかにも海外らしい派手な、ことば選びだとおもわなくもない。
さて、このチャレンジドということば。 正直ずいぶんと美化したことばだと感じた。 おおげさだなあ、と。 そしてなんだか的外れのような気がした。 なにかがズレているために、まるでネジが一本抜けたような印象を与える。
その美しい、崇高なイメージを抱かせる表現をわざわざ選んだのはなぜだろう。 もちろんことばの持つ意味合いは、ざっと検索してみた。 わたしが見たところ、妙に綺麗ごとでドラマティックさを演出しているように思える。
障害を必要以上に良く見せようとしているのか、もしくはほかの意図があるのかと。 日本の風土には合わないことばだと思うのは気のせいか。
このことばが輸入され、障害者の周囲で使われはじめた現象をみて感じた。 けっきょく、障害者とその周囲の人たちは、 「自分たちを特別視したいんだな」 と、わたしは受けとった。
自称「チャレンジド」
と表現したくなるような、妙な違和感をわたしは抱く。
障害者ということばを嫌ってチャレンジドということばに換えても、 ハンディキャップという現象面がいずれイメージとなり、そのことばに貼りつくだろう。 ついでにチャレンジという言葉がもつ手垢が、加わる気さえする。
もちろん反論はあるであろう。 しかし人間は、個々にフィルタリングし勝手にそのことばを受けとめるものだ。 わたしが書いていることは、小さな一個人がそう感じたという、 ある意味、世界にとってはどうでもいい事実だ。 人類すべてが色違いのメガネをかけている、その一つの表れだと思ってほしい。
別の点から、わたしの例を出して論じてみよう。
わたしは幼少のころから喘息持ちである。 この喘息患者というものに、障害者の例にならって、 あえてチャレンジドということばをかけてみると、こうなる。
「喘息というハンデを生きるよう、高貴な課題を与えられた挑戦者です」 と自称しているようで、気持ちがわるい。 また周囲に「あなたはチャレンジド」といわれたとしたら 「そんな崇高なものではない」と言いたくなるだろう。 相手の心づかいに感謝しようとおもいつつも、 悪意なき的はずれな脚色に、わたしはうんざりするに違いない。 病気というものが、ある一面で精神的チャレンジであるのは事実だが、 できれば自分の心にだけに内包しておきたい。 おおっぴらに「チャレンジドです」などと表現したくない。
病気持ちのなかには、 病気自慢が好きな人たち、というのがいる。 おなじ喘息患者同士でも、存在する。 病気の苦労はわからなくもないが、わたし好みではない。 チャレンジドということばに、 病気自慢と同じにおいをわずかに感じるのは気のせいだろうか。
わたしは病気を美化したくない。 そして喘息患者であることをハンディキャップとするならば、 その自分を美化するつもりも、さらさらない。
病気とは、 病気ということばが持つイメージどおりの、 大げさでもなく、かといって小さすぎるでもない、 不便だという事実の、それだけの現象だ。
障害もしかり、といったら否定されるだろうか。
ハンデを持つということが、人生のチャレンジである面はあるだろう。 その喜びある収穫と、反対に悲しき損失は非常に個人的なものだ。
比較的、恵まれた環境に生まれた人には、その人なりの、 苦しい環境に生まれた人は、またその人なりの苦労がある。 結局、この世界へ生まれたひと全員が、 チャレンジドなのだ。
だから障害者がことさら自分たちをチャレンジドと呼ぶことに わたしは否定的だ。
--------------------------------- 他にもつけたしたいことがあり、 主に障害や病気などネガティブな面と生命についてだが、 長くなるのでとりあえず記事をしめることにする。
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